神の盛合せ

Diary

平均的な日本人の例に漏れず、私もあまり宗教や信仰に疎い。

自分がどの何をということも無論ない。

けれども一つの場所に様々な信仰が同居し、夫々が息づく姿を目の当たりにすると、どうにも心の中に微かな鼓動を感じずにはいられない質である。

日本には、日常に溶け込むようにして御天道様や仏、あるいは異国の神々が同居している。

それは幼き頃から当たり前のように馴染んだ光景であり、彼らは習慣の中に生きているのだから、意識せずともそこに在るのだ。

但、今日の細分化された時代から見ると、ここの場にも一つの宗教であることが全くないと云うことに対し、何故なのかという疑念が生じるのは、自然の成り行きであると言える。

先日、ふと思い立って幾分か足を延ばし、無目的を徘徊していると、街外れの住宅地に、ぽつんと佇む小山の存在に気が付いた。
そこには南無阿弥陀仏、猿田彦、白山、弁財天、七庚申、そして石動といった文字が彫り込まれた石碑が造作に並び、神明、白山、石動、さらには愛宕神社までもが密かに鎮座していた。正確に言えば、石動、愛宕神社は裏手にひっそりと存在しており、初めはその存在に気付かなかったのだ。

その小山は御利益の天骨を盛り合わせたかのようで、神仏習合の姿が未だに息づいていることに感銘を受けた。廃仏毀釈の波がここまで及ばなかったことに感心した。

高く聳える木々も太く、林間を漂う風は微かに、老いた木々の間を静かに通り抜けていく。一歩鳥居を潜り、石段を二歩三歩と上がる。バサり。烏が一羽を翅音を立てて翔け、その様は場と云う静寂を破るかのようだった。

呆気に囚われていると、葉は元通り柔らかく騒めいた。おずおずと恭しい心持ちで神前へ向かう。すらっと背筋を伸ばし一礼、そして柏手を打つ。その音すらも木々の中に溶け、再び深い静寂に呑み込まれてしまった。

その場に解けていく感覚と共に、スっと畏怖の念が心を覆う。

こうした古い社寺や老木に囲まれていると、完全に言葉の世界の外の中に出て行けるような、そんな感覚に陥る。

陰翳の中から忍び寄る気配は、如何ともし難い。
再び一礼。
一歩下がる。

不意に左へ目をやると斜めに傾いた木漏れ日の中に公園が在った。
生い茂り、蜘蛛の巣が風に揺れる。錆びたブランコ。嘗て子供の声が満ちていたであろうその場は、今ではすっかり忘れ去られている。

その場を支配する面影に呑まれてしまいながら、シャッターを切る私。果たして彼らには、私がどのように映っているのだろうか ───────。

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