大正時代の卒業写真

こんにちは。

笹路かいとです。

お祖父ちゃんの認知症がいよいよ酷くなり、お祖母ちゃんも起きていられる時間が少なくなってまいりました。母方の実家はこれでもかと書類や年賀状、写真などが積んであります。彼らが死んでしまえば、この山は意味を失ってしまうことでしょう。

そんなこんなで遺品整理、もといふたりの終活の手伝いをすべく家の中を整理していると、百年近く前の写真や当時守隨商店で使っていた名刺や算盤やらがまだ出てきました。

あまりにも数が多く、自分の家で引き取ることは出来そうにないですが、全て捨ててしまうのも御先祖様に対して忍びないので、ここに記録として調べたことと共に残していきたいと思います。

一回に一つずつくらいのペースで投稿していきますので、お付き合いください。

大正時代の卒業写真

本日は、随分前の親族の卒業写真です。
この人は母方のおじいちゃんの血筋の何処かです。
高祖母?ら辺の人だったと思います。

表面

顔を知らなので、何方がきみさんなのか判らないですね。
きみさんの肖像写真が出てくれば判るかな?

男性は坊主頭に背広の洋装で、女性は髪を確り結ってかつ袴の和装なのが当時の様子としてよく見るものと思います。ですが、何故に女の人は和装なんでしょうかね。

私の頃の成人式(と言っても三年前)も大阪芸大の卒業式(これは今年)も、女の人は和装が多く男子はリクルートスーツみたいな感じでした。
こういったものの起源や関係性はよく気になってしまいます。

では、裏面を見てみましょう。

裏面

裏面に書かれている文字は恐らくこんな感じです。

大正五?年四月
実科女学校
卒業記念
拾六?才
守隨きみ
撮影:尾張犬山町 桜本写真館

読めない文字の後ろに「?」がかいてあります。
日記や手紙などを読んでいても皆さん達筆で読めないんですよ。
読める方はコメントで教えてくれると助かります。

裏面の文字について

では、書かれている文字から少し調べてみましょう。

尾張犬山町

犬山町(いぬやまちょう)は、愛知県丹羽郡にかつてあった町である。現在の犬山市の中心部に該当する。北は木曽川を挟んで岐阜県と接する。かつての犬山城の城下町、および稲置街道犬山宿宿場町であった部分が主体である。

実科女学校

旧制の高等女学校の一種で,家事,裁縫など実用的教科目に重点をおいた女子の中等教育機関。 1910年に制度が定められ,翌 11年から設置された。 12歳以上で尋常小学校卒業程度以上の学力を有するものを入学させ,修業年限は4年。そのほか,高等小学校1,2学年修了程度を入学資格とするものも認め,その場合の修業をそれぞれ3年,2年と定めた。家族制度を基にした家政教育,婦徳養成を重視するもので高等女学校が大都市型であったのに比べ小都市,農村型の性格をそなえていた。 43年の中等学校令で廃止された。

場所から察するに現在は全日制の愛知県立犬山高等学校だと思われるます。

明治44年5月2日犬山町城東村学校組合立犬山実科高等女学校として設立認可。
(修業年限2か年、生徒定員80名)

学校のような公共のものはこう残っていて、自分の寿命より遥か昔からの連続性を感ぜられるので好きです。それを言うと大木とか寺社仏閣とかお墓とかもう何百年とそこに在る、そのようなものが在ったッてのが大好きです。こういった古い写真もそのひとつかもしれません。

最後に

当時の様子をそっくりそのまま垣間見ることを可能にしてくれるところが、写真の良い所ではありますが、こうした個人的なものはその人の親族が大々大事にしていかなければその人の代で当然失われていく運命にあります。

見つけてしまったので、私の性として残していかない訳にはいかないんですよね。

収集癖と言うやつは良くも悪くも何だって取って置きたくなるもので、血は争えないとは本当にその通りだと思います。お祖父ちゃんの家にこれだけ書類と写真の山があると云うのが正にそれと言ったところです。

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梅雨前だというのに、私の今いる地域の気温は30度近くあります。
皆様どうか体調に気をつけてお過ごしくださいませ。

うちの猫は可愛い。

それでは。
(*´꒳`*)ノ”


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