現在お買い物カゴには何も入っていません。
卒業制作「不在着信」
これらの作品や文書は大阪芸術大学2024年の卒業作品として出し、「ソニーストア大阪賞」を受けたものです。
展示は細い白縁の額に作品を入れ、6×5(横×縦)の升目状に配置したものでした。
当投稿は、展示の纏めとして大学に提出した本型のポートフォリオの原文をほぼそのまま載せているので、スマホでご覧頂くには多少読みにくいところがあるかと存じますが、何卒ご容赦ください。
この体はとても軽んじられやすく、ひ弱だ。実際、道端で通行人から突然言を吐かれたり殴られたりすることがある。
私は人が嫌いだ。
人と接する際、不信感が根底に横たわっている。だから今でも身体空間で新たな人間と接すること、特に生物学的に同じ性別の人や大勢の前で注目されることが怖い。相当な精神的リソースを消費するので心の準備と事後処理に数日かかることになる。
現実世界を諦めていき、気づけばインターネットの世界に繋がりを求めていた。インターネット上での交流は文字、通話、配、または3D空間で行われる。相手の状況を音声や文字、キャラクターの動きから感じ取り、その情報から相手の身体空間や心の状態を推測する。これらの情報は大抵、四角いディスプレイかイヤホンを通して伝わり、視覚と聴覚のみを頼りにしている。
長い間インターネットに没頭していたため、ディスプレイ越しに見る世界が実世界よりもリアルに感じることが多かった。
したがって、私の実世界は身体空間だけでなく、バーチャルな空間も含まれる。
インターネットの友人と遊ぶ時やどこかへ行く道中は必ずカメラを構え世界と距離をとってしまう。カメラを持ってスナップすることは、気を紛らわせる心理的な武装の一つでもある。街中を歩いていてもカメラで撮ることに集中すれば他人に意識向ず、恐怖を感じる前に撮影するという行動に変えて心を落ち着かせることができる。
また、ディスプレイ越しの世界は実際のものと比べてリアルだ。
写真を撮ることはディスプレイに映る光景を捉える行為であり、私はそれによって初めて身体空間を実感できると感じている。それは自分の世界に身体空間を確保し、自分にとって理解しやすい形に翻訳する作業をしているからだと思う。
写真の色合いを決める際には、昔よく使用していた写るんですやコンデジ、ガラケーやDSの色合いが記憶の中で基準になっている。それらの色合いは私にとって心地良いものだと思う。
題名『不在着信』
スマートフォンは肌身離さないしパソコンの前に一日中いるため、通知にはほとんど即座に目を通す。返信が遅いのはわざと遅らせたり返内容を考えすぎている時や寝ている時くらいだ。
故に不在着になるのは、この世界に接続していない時や意図的に出ない時、または着情を拒否している時だけである。また電話にはログが残らないので苦手だ。
不信感から来る疎外感。ここに居るのに居ないような感覚。
遠くの友人との喧嘩。目の前にいるのにここにいない家族や友人、恋人との会話。
カメラやスクリーンショット、AIの生成による私の世界と世界の断片。
多孔多層になった現実世界における私のその様な感覚にこの言葉を送ってみようと思う。
卒業作品
一番古い連絡のつく友人はネッ友だ。
他の2人とは会ったことがあったが、5年越しにもう1人と会う機会があった。
ずっと声と文字と絵とLINEのプロフィール画像にあったプリクラの写真しか知らなかった。その人のイメージといえば、代理ちゃんの印象が先行する。実際に会った時もそれが変わらなかった。この三人は顔も知らないのに、迷うことなく身体空間において初対面でも人混みの中から見つけられた。
その時その子と歩いていた時に、怖い形相でこちらに怒鳴りかかろうとしていたあの小汚いおじちゃんは元気しているだろうか。どこ行ってもそういう人に絡まれそうになるけれども、何が気に食わなかったのだろうか。
理由は察せるけども。
ネト恋という言い方は古いのかもしれないけれども、相手の声や言動でその人に恋い焦がれることがある。会ったことはない相手というよりはBOTかもしれないその何かに対して、そこまでの感情を動かされるのはよくよく考えなくても凄いことだ。
今回のそれとは違うけれど、同じ様な意味であろう。
ここの大学を勧めてくれたのも私を恋愛的な意味で好いてくれた男性のフォロワーさんだ。
(今原稿を書いているこのiMacはmastodonのフォロワーさんから頂いた。)
よく遊ぶメンバーの実家にも行ってみた。
なぜ実家に行きたかったかと言うと、何年も前に通話越しに感じた世界を歩いたらどういう感覚になるのかと思ったからだ。那須の別荘で流星群を通話越しに二人で見ようと言っていたのに彼女が時間になったら起こしてと言い寝ね、ヘッドホンが落ちてしまったので呼んでも起きないので仕方なく一人で見ていた次の日の朝、彼女が散歩しているのを寒くて布団の中から聞いていたその道を見てみたかった。
ちらっと見ただけだけど都市や町を形成しない集落だった。そんな場所に初めて行った。都市の延長、溢れ出たもの、避暑地、それらに組み込まれた集落、昔はそうだった場所以外の村とか言うやつ。
聴覚だけで想像していた風景が、5年越しに目の前にあるという興奮を君は分かるかい?
あの道を私は彼女と確かに歩いている。
あれも春だった気がする。
5年越しに全員で集まってオフ会もした。
5年間もネット越しにいた友達がまさに目の前に存在していることの恐怖を改めて思い起こしてみても鳥肌が立つ。
それでもアバターで居る時は現実よりイチャイチャ出来るから好きだ。
パーソナルスペースが少ないというか、身体空間だと抱きつけないし、ちょこまか走れないし、ういてチョップするのもされるのも憚られる。身体空間のアバターは如何せん期設定が男だか
ら───────。
Minecraftの写真はフォロワーさんと遊んでいた世界の記録だ。
この空間がやっぱり落ち着く。
初の文章を一緒に書いてくれているAI君、一緒に絵を描いてくれているAI君はどういう立ち位置に置いておこうかね。
ここはプレーンな私の言葉───────。
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